2013年9月15日日曜日

バッハ「フーガの技法 BWV1080」の衝撃:生物としての音楽

 本日は主日礼拝があったので,その説教のブログを書くつもりだった.その準備をしながら,何かBGM的に音楽を聴こうと思った.説教のブログなのでバッハがいいかと思い,どの曲をかけようかと検索していたところ,「フーガの技法 BWV1080」が目に入った.

 バッハの「フーガの技法 BWV1080」は,名曲として知られている.しかしバッハ好きの自分は,敢えてこの曲を聴いてこなかった.それはタイトルから受ける曲の印象が,非常に悪かったからだ.「おそらくこの曲は,作曲技巧的にたいへんすばらしいのだろうが,歌ものではないし,おそらくメロディアスでもないのだろう」と考えたからだ.

 自分はバッハの曲の中に存在する「歌」が好きだ.グレン・グールドがピアノを弾きながら,よく鼻歌を歌っているが,やはり彼も曲の中に歌を感じ取っていたのだと思う.だから歌よりも技巧的を優先させたと思われる「フーガの技法」には,あまり興味がわかなかったのだ.ただ名曲だということなので,一聴の価値はあるだろうとは思っていた.だからこの際,BGM的に聞き流しながら,説教ブログを書こうと思ったのだ.

 さてYouTube検索してみると「フーガの技法 BWV1080」には,様々な楽器編成で演奏されているバージョンがいくつかあった.なぜこれほどまでに,様々な楽器で演奏されているのか不思議に思い,Wikipediaで調べてみると,なるほど,楽器の指定が楽譜になされていないことがわかった.たださらにあちこち調べてみると,バッハはこの曲の楽器として,チェンバロを想定しているらしいこともわかった.試しに様々な楽器編成による演奏を,YouTubeで聞き比べてみた.素人の自分には,チェンバロでも,オルガンでも,ピアノでも,弦楽器のアンサンブルでも,全然問題なく聞こえた.いやむしろ,どの楽器演奏でも違和感なく聞けることに驚いてしまった.「楽器を選ばない曲などあり得るのだろうか?」その時にちょっと変な感じがした.「これは今まで聞いてきた他のバッハの曲とはひと味違うのではないか?」といいたような,違和感に似た感情だった.

 「おそらく楽器指定が無いと言うことは,バッハはある程度,チェンバロ以外の楽器による演奏も想定しているのだろう」などと自分を納得させつつ,結局,一番スタンダードだと思われるコープマンによるチェンバロ演奏を選択した.自分はそれほどクラシック演奏者について詳しくないのだが,コープマンの名前は知っていた.有名演奏家によるスタンダードな演奏であり,安心して聞けると思い,彼の演奏を選択したのだ.

 さて曲の冒頭を聞き流しながら,ブログ書き込みの準備を始めた.ブラウザを開き,Bloggerを表示し,「新しい投稿ボタン」を押し…,やがて手が止まった.それどころではなくなってしまった.曲が進むにつれて,魂が強引に曲の中に引きずり込まれていき,もはやブログどころの騒ぎではなくなってしまったのだ.全神経を耳に,曲に集中させる義務があった.正に非常事態である.そして私の耳が小声で叫んだのだ.「これは…事件だ!」と.

  そこから約1時間15分,自分は打ちのめされ続け,うめき続けた.そして演奏が終わった時には,表現が難しいが,もうこの世の終わりが来たかのような気分になった.感動と言う言葉は的確ではない.正に魂が圧死しそうだった.バッハに殺されそうになったのだ.

 自分には今まで音楽に殺されそうになる経験は何度かある.グレン・グールドの「バッハ・ゴールドベルク変奏曲」 ユーディ・メニューインの「バルトーク・無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」.今回のコープマンの「バッハ・フーガの技法」は,それに匹敵する衝撃を私に与えたのだった.

 自分は初めて音楽について「完全性」というものを考えざるを得なくなった.音楽に「完全」なるものはあるのだろうか?あったとしても,それは重要な意味を持っているのだろうか?つまり何らかの価値を持っているのだろうか?

 フーガの技法は,音楽に完全性という価値があることを教えてくれる.それは確かに数理的な側面を持っているように思う.したがって,どこか超絶的であり,絶対的であり,冷たい非人間性すら感じさせる.「峻厳的」とでも言うのだろうか?しかし同時に,生命の理想としての永遠性をも持ち合わせている.だからそこに血脈が通っている感覚がある.「(部分的)死によって欠けることのない生命の完全性」とでも言ったらいいのだろうか?

  音楽は,人間を媒介にして生きている生命,言い換えれば情報である.生命としての音楽は,宿主である人間をある程度コントロールしながら,自己情報を維持(演奏される事)し,時間やエントロピーに逆らいながら,自己の情報を次の世代に伝えようとする.音楽は生命として生殖し,また生殖によって様々な近似バリエーションを子として生み出し,個体間で生存競争を行い,淘汰・進化しながら,永遠の生命を目指す.良い音楽は人間の手によって守られ,人間がそこにいる限り,演奏され続ける事で生きながらえていく.

 特にバッハの音楽は,オートポイエーシスの条件に必須の,自己参照性(参考文献:ホフスタッター『ゲーデル、エッシャー、バッハ - あるいは不思議の環』)を持っているように自分は思う.つまりバッハの音楽は「永遠の生命」への意志を持つと言ってもいいのかもしれない.フーガの技法は,その代表格ではないか?そういう意味では,このタイトルは全く不適切だと自分は思う.

 バッハ本人が「フーガの技法」において,あるいは他の作品において,その曲の永遠性・生命性を追求していたかどうかは自分にはわからない.しかしバッハの見出した(注:敢えて作曲とは言わない)「永遠の生命」が,人にとって善きものであった事を,私は感謝したい.

0 件のコメント:

コメントを投稿