2013年12月28日土曜日

「ゆるい」バッハ(on twitter @rahumj)

 敬虔主義は,バッハの音楽にインスピレーションをあたえた.マタイ受難曲しかり.ヨハネ受難曲しかり.正統主義からそれらのバッハの音楽は,生まれてきえたであろうか?

 かといって,すべてのバッハの音楽が敬虔主義的というわけでもない.バッハはルター派正統主義内にいた.したがってその作品は正統主義的作品がむしろメインであり,彼の作品の建築的作法にそれは表れている.しかしバッハには,神秘主義的ともいうべき作品も存在する.


ルター派正統主義の教義では、音楽は人を神により近づけるものであったと考えられていたのに対して、敬虔主義では、音楽は個人的な黙想の訓練に用いられるものと考えられていた読書感想文のページ「神には栄光 人の心に喜び-J.S.バッハ その信仰と音楽/ヘレーネ・ヴェアテマン/村上茂樹訳」

 またルター派プロテスタントであっにもかかわらずバッハは,カトリックのミサ曲ロ短調 BWV232 をも作曲し,「カトリック的な神の讃美の世界と、ルター派的な十字架信仰の世界の、類のないほどの衝撃的出会」いをもたらした.

 神秘主義を含むカトリックの批判から生まれたルター派正統主義.そのルター派正統主義の批判から生まれた敬虔主義.バッハはルター派正統主義を中心としながら,その弱点を補うかのように,その周辺の宗派要素をバランスよく取り入れて作品を作っていたのだろうか?

 バッハ における聖と俗とのバランス感覚.パトスとロゴスとのバランス感覚.そして自分にはとても認識しきれない,音楽内における数学的幾何学的なバランス感覚.それを思うとき,彼が正統主義の立場でありながら,背理的にそれらを導入したことは十分考えられると思う.

 正統主義者バッハの耳は開かれていた.その彼に「自由」を保証したのは,言うまでもなく神自身である.彼は自分が「司祭」であることを強く自認していたのかもしれない.その自由は,正統からの逸脱をもたらすと同時に,彼と彼の作品に生命を与えた.

 バッハ の持つ絶妙なバランス感覚は,正統主義者にありがちな,硬直した教条主義者化から彼を守った.そして正統主義に身をおいたはずのバッハの作品に,ある種の普遍性をももたらした.それは彼の「ゆるさ」と言っても良いのかもしれない.

 しかしこのバッハ の「ゆるさ」は,今見てきたとおり,極めて制限されたものであることを忘れてはならない.つまり「手抜き」でも「制御不能」でも「ノイズ」でもない.それ は彼の「art」である.彼は人格的に顕現される神の讃美からは,いつ何時も逸脱しなかったと自分は思う.

 バッハ に与えられた賜物であろうその「バランス感覚」「ゆるさ=許し」を,自分は果たして,その何百万分の1でも与えられているのだろうか?それは自分の信仰生 活や自分の周囲において何を意味するのか?それともそれはは捨て去るべき幻影(まやかし)なのだろうか?身分不相応なのか?

2013年12月27日金曜日

ピアノ練習(2013/12/26) :超スローテンポでのバッハの味わい

 年末になり,イベントやらなにやらで,忙しくなってしまい,ピアノ練習の時間がとれなくなってしまった.本日は1時間半練習したが,久々といった感じだった.

 練習当初は指の動きも,かなりたどたどしかったので,もしやかなりの練習成果が失われたのでは内科と心配したのだが,しばらくすると,指も調子が出てきて,以前のように動くようになった.逆に言えば,指はそう簡単に練習内容を忘れないようだ.

 本日は,とにかくインヴェンション第1番をメインで練習し,感覚を取り戻すことに終止した.また4番までは,一応片手で一通り練習はしておいた.こちらも意外にも,それほど練習成果を忘れていなかったようだった.

 マンネリ打破としては,第3番の両手練習を数小節,超スローテンポで譜面を確認しながらやってみた.ところがこれが意外にもおいしかった.超スローテンポの両手練習では,それぞれの和音の響きを,十分に味わうことが出来る.

 いつも思うことなのだが,バッハの曲はゆっくり弾いても,なぜか味わい深い.いやむしろ,ノーマルテンポで聞いた場合には気づくことの出来ない,「隠されたうまみ」のようなものが,いぶりだされてくる.これはおそらくポリフォニックな音楽の作曲において,横方向(時間=歌)だけでなく,縦方向(空間=和音)について,バッハが相当な意識を持っていたからなのだろう.まるで自分は,音楽という建築物を支える,その柱の一本一本の美しさを吟味しているかのような気分だった.

ということで,本日はここまで.お疲れ様でした.

2013年12月19日木曜日

ピアノ練習 2013/12/18:バンブラDXとバンブラP

最近ブログを書いている時間がなく,しかも体調を崩したりしたので,ずいぶん記録は飛んでしまった.とりあえず本日のことだけ記録しておく.

 本日の練習は1時間半.内容はほぼいつもどおり.既にマンネリ化しているので,打破する必要があるのだが,それを工夫している時間が今のところ捻出できそうにない.このままだと,練習がおざなりになってしまうと思い,30分間はDSiLLでバンブラDXの練習をやってみた.

 久々だったのでやはり手が動かないのだが,打ち込みであっても,良い曲には深い感動があった.その中には,自分で耳コピして作った曲も含まれている.時間があれば,年末年始の休暇中に,1曲ぐらいは耳コピで作りたいものだが,現在既にバンブラDXの楽曲アップロードはできなくなっている.つまり作っても他者に楽しんでもらうことができない.

 作った曲を公開するためには,3DSと新製品ソフトの「大合奏! バンドブラザーズP(以下バンブラP)」が必要となる.これはかなりの出資だ.

 バンブラPがその前のバンブラDXよりも良い所は,
  • ネット合奏で見知らぬ人と合奏
  • パート数が8から10に
  • 最大小節数が120から150に
  • 使用可能楽器が58種類から72種類
  • VOCALOID機能
  • 3000曲までダウンロード可能(要SDカード,有料トマト)
  • ドラムにパッド操作を追加
  といったところだが,ダウンロードプレイなどが削られており,リアルな友達と気軽に合奏することができなくなってしまった.

 まだ発売直後であり,ダウンロード可能な楽曲も揃っていない上に,ダウンロード時に必須となる有料トマトは使用期限があるために,ある一定の期間以内にダウンロードしなければならないという制限がある.

 このような理由から,自分はまだバンブラPには手を出していない.そのため曲作りは今年の年末年始はお預けとなる.

 話がそれた.あまりうまく行かなかったが,バンブラDXの演奏練習で,マンネリ化したピアノ練習が少しリフレッシュ出来た気がした.

 最後に本日の発見を一つ.トリルについて毎回のように書いていたが,本日トリルに関するネット検索を行って発見があった.譜面上のトリルの運指指定は2指と3指なのだが,これを1指と3指,または1指と4指でやってみろというものだった.実際それでやてみると,トリルの音の粒が揃って,発声が確実になった.まだこの指の動きには慣れていないのだが,今後クセ付けようと思う.ただ,ちょっと指の疲れ方が新しい方法の方が疲れる気がする.もしかしたら長い曲では,この運指は向いていないのかもしれない.この点については,またネットで検索してみよう.

 ということ本日はここまで.お疲れ様でした.

2013年12月15日日曜日

ヘルムート・ヴァルヒャのハープシコード曲(on twitter @rahumj)

 ヘルムート・ヴァルヒャHelmut Walcha)のバッハのオルガン曲ではなく,ハープシコード曲を聞く.この抑制感は,彼が全盲であることから来るのだろうか?細部まで丁寧に提示してくるので,食べ残しなく,すべて美味しく食べられる感じ.

  YouTube: Bach the well tempered clavier book I BWV 846 870b Helmut Walcha

2013年12月12日木曜日

コンピュータ音楽の分水嶺(on twitter @rahumj)

 本日のTVにおける坂本龍一の発言を聞いてふと思った.

 コンピュータ音楽創作において2つの方向性があるということ.一つはコンピュータの冷たい数理的美しさ・清潔さを追求する方向,つまり人から離れようとする方向.もう一つはコンピュータに命を吹きこもうとする方向.つまり人肌に近づけようとする方向.

 前者は「人から遠ざかっていく音楽」と言えるのかもしれない.その追求とは詰まるところ,人間と音楽自体の間に横たわる決して越えることの出来ない深淵を,認識するという行為なのかもしれない.

 その深淵を前にして絶望することのない音楽家には,おそらく音楽自体に対する敬虔な信仰があるのだろう.その前に立ち止まれば彼は,決して越えることの出来ない深淵の向こうから流れてくる,数理的美の芳香に癒される.しかし後を追って歩き始めれば,深淵はますます広く,そして深くなっていく.ここに彼の信仰は試されるであろう.

 後者はもっとわかりやすい.人肌を目指すコンピュータ音楽の目標は,明らかにアンドロイドである.それはただのアンドロイドではない.そのアンドロイドは,人類の誕生から現在に至るまで,人としては決してやってくることはなかった「究極の美女」の像である.

 前者と違い,後者のアプローチをとる者は,音楽自体と人間との間に絶対的な断絶があるとは認識しておらず,むしろ両者間の距離はその追究によって限りなく縮める事が可能であり,最終的には人間と音楽とが完全に「一体となる」ことができると想定している.

 ピュグマリオーンの甘美な夢を見た人々の悲劇は,彼らの作品が結局は物体であり,一体化が不能であったことによる.しかし音楽作品ではどうなのか?そもそも自分で音楽を創作し,それを自分で奏でるという行為は,ピュグマリオーン性を元来持っているのでは無かろうか?

 いずれにしてもピュグマリオーン主義者は注意しなければならない.一つは内向的排他性(閉じた系)に伴う死.もう一つは快楽追求主義による消耗死である.

 この2つの方向性は,コンピュータ音楽の問題というよりも,古くから音楽に内在していた問題であり,それがコンピュータという拡大鏡の出現により顕在化した,といったほうが正しいのかもしれない.

 おそらくバッハは,その作曲において,神と人とによって形成された無限の広さを持つ1次元空間の,いったいどこに己の工房を築くのかについて苦慮したことだろう.しかし,ありがたいことだ.彼にはその決定のためのある資料が手渡されていたのだ.それが聖書であった.

2013年12月11日水曜日

椅子の位置とリズムの揺らぎがもたらす神秘感(昨日と本日のピアノ練習2013/12/09-10)

 昨日と本日のピアノ練習は約1時間半.内容はほぼいつも通りで,インヴェンション第1番をメインに練習した.練習内容については,敢えて書いておくものはないのだが,2つ気づいたことがあった.

 一つはピアノに対する椅子の相対的位置の問題,もう一つは「リズムの揺らぎがもたらす神秘感」とでも言ったものだが,本日は時間が無いので言及は止めておく.

 ということでお疲れ様でした.

2013年12月9日月曜日

オルガンコンサートでの再発見(on twitter @rahumj)

 オルガンコンサート終了後の懇談会.コーヒーを飲みながらオルガニストの方とお話が出来て,私にとってはとても楽しいひとときだった.本日の演目構成は,前半は主にクリスマス向けのパストラーレ,後半は同じくクリスマス向けの楽しい有名な讃美歌というもの.この中には当然バッハも含まれる.

 特に前半の構成は,ほぼバッハ以前のパストラーレ系作品を続けて演奏し,最後にバッハのパストラーレ BWV590 を演奏するというものだった.その最後のバッハの演奏が,予想に反して,あまりにも近代的に自分の耳に響いたので面食らってしまった.

 「バッハ以前」と表現したが,ジーフェルトを除いて,ツィポリ,コレッリ,ブッツシュタットといった,ほぼバッハと同年代の作曲家の作品だった.また時代的にバッハ後であるバルバトルの作品も含まれていた.これはオルガニストの方に確認していないが,意図的な構成なのだろう.

 バルバトル除いたそれらのパストラーレ系の作品には,確かにある種独特のニオイが漂っていた.それはおそらく牧羊の群れのニオイ,田舎における素朴な生活臭であった.
ところがバッハのパストラール BWV590 は驚くべきことに無臭だった.確かにバッハは羊(牧歌)を材料に料理しているようなのだが,その焼き肉からは羊の臭みが全くしない.あく抜きされ,臭みがなく,おまけに美しく整然と盛りつけられていた.自分が近代を感じたのはそのためだろう

 それでは,バッハ以降のバルバトル (1727-1799)の作品はどうかというと,今度は逆に羊っぽさが全くなくなる.もちろんパストラーレではないから,羊臭が無いのも当然ではあるが,元ネタは讃美歌第二編112番,スイス民謡のノエル=クリスマスキャロルだ.

 このバルバトル の変奏曲は,全く元ネタの民謡臭がしないだけでなく,もっと人工的な,華美な,装飾的な,もっと言えば拘束的なものを感じた.羊に豪華な服を着せたような感じだ.それが革命を目前にひかえた,当時のフランス文化のなせる業だったのかもしれない.

 バッハ以前のパストラーレを4曲,バッハ以後のパストラーレを1曲が演奏された後に聞くバッハのパストラーレは,単に近代的に聞こえただけではなく,素材(牧歌)の良さを殺さない絶妙なバランスのとれた作品として自分の耳に響いた.

 ツィポリやコレッリは比較的有名な作曲家だが,今回の演奏を聴いた後,自分は思ってしまった.

 「バッハはこれらの作曲家とは格が違う」

と.そして改めて,バッハのすごさを再認識し,打ちのめされたのであった.

 ただ今回のオルガニストの方は懇談会において,「この教会のポジティフオルガンには,素朴な曲が似合っているから」ということで,これらマイナーな牧歌色の強い曲を選んだとのことだった.バッハのような完成度の高い作品ばかりではなく,素朴な曲の持っている「良さ」も知ってもらいたかったのだろう.

 おそらくこのような曲順になったのは,単純にバッハのパストラーレが,このコンサートのメインの曲で,難曲かつ長い尺の曲だったというだけではなく,最初にバッハのこの曲をやってしまうと,残りの曲があまりにも素朴で,つまらない曲に聞こえてしまうからだろう.

 ただバッハを最後に配置した今回の曲順は,バッハを最初に配置した逆順よりも,バッハのすごさを認識させるのには効果的だったという気がする.興奮冷めやらぬ自分は,家に帰ってから改めて,バッハのパストラーレを Karl Richter 版で聞き直したのであった.

 するとこちらは本物のパイプオルガンなので,音の残響時間と太さが全く異なり,また印象が変わってしまった.

 ちょっと惑溺感のような,夢見心地の酔いが入り交じってくる.当たり前なのだが,教会のポジティフオルガンは,鍵盤は1段しかなく音域が狭い.そしてなによりも音そのものが圧倒的に小さい.その上,礼拝堂の構造が無響室のようになっているため,ほぼ無残響である.オルガニストの方も「残響が無いのでごまかしがきかない」と言っておられた.当然バッハは,通常のパイプオルガンによる演奏を想定して作曲している.残響による音の入り交じりも計算に入れているはずである.

 すると自分が聞いた,バッハのパストラーレ Karl Richter 版で感じたあの「酔い」は,本来の演奏では必須なのだろう.つまり臭みの無い,整然と盛りつけられた,極上の羊の焼き肉には,ブドウ酒が添えられていたのであった.

 つまり,ポジティフオルガンによるバッハのパストラーレの演奏は本来不可能なのだが,それを百も承知の上で,オルガニストの方は演奏されたのだろう.

 そしてオルガニストの方が感じたであろう,その「歯がゆさ」のようなものが,ポジティフオルガンや残響の無い礼拝堂でも問題の少ない,牧歌性(笛による,無残響の野外で演奏)の強い古い曲への演奏意欲につながっていると想像する.

 自分はパイプオルガンをその本体だけで成立する楽器だと思い込んでいた.しかしそれは間違いだった.パイプオルガン本体は楽器の発声部にすぎない.パイプオルガンは,そのオルガンを内蔵した建築物全体で鳴らす超巨大楽器だったのだ.

 パイプオルガンを購入すると言うことは,一つの建築物を購入することに他ならない.こう考えてみると,制作費用1億円以上,年間維持費200万円とも言われる,そのパイプオルガンを預かる選任オルガニストの重責は想像を絶するものがある.音楽のプロ中のプロが選ばれるのも当然だ.

 そして,はたと気づいた.あの野平一郎のような大先生が,なぜ地方の静岡音楽館AOIの芸術監督になったのか.それはそこにパイプオルガンがあったからだと.

最後に本日の演目を上げておく.
  1. D.ツイッポリ(1675-1716)
    パストラーレ ハ長調
  2. A.コレッリ(1653-1713)
    パストラーレ ト長調
  3. P.ジーフェルト(1586-1666)
    変奏曲「御子,ベツレヘムに生まれぬ」
  4. J.ブッツシュタット(1666-1727)
    「今きたりませ」による2つの変奏曲 讃美歌第二編96番
  5. C.バルバトル(1727-1799)
    スイスのノエル「彼は可愛い天使」による変奏曲 讃美歌第二編112番
  6. J.S.バッハ(1685-1750)
    パストラーレ BWV590
  7. 作曲者不詳
    「ああ,お母様聞いて頂戴」による5つの変奏曲
  8. J.S.バッハ
    「あまき喜びの中に」 BVW729 讃美歌102番
  9. R.テイラー(1747-1825)
    「神の御子は」による変奏曲 讃美歌111番
  10. B.カー(1769-1825)
    「いざ歌え,いざ祝え」による変奏曲 讃美歌108番
  11. G.ムファット(1653-1704)
    トッカータ2番 ニ短調
  12. アンコール曲(失念)

2013年12月7日土曜日

ピアノ練習 2013/12/6

本日の練習は約1時間.メインはインヴェンション第1番のメトロノーム付両手練習だった.軽く第2番の両手練習,第3番と第4番の片手練習も行ったが,通しを1回やったぐらいで,第1番の練習がほとんどだった.

本日気づいたことは,メトロノームによって,難所においてリズムが早くなってしまう部分があったということだ.難所だと遅くなるのが普通なのだが,気持ち的に速く切り抜けたいという気持ちがあるためなのか,速くなっていた.メトロノームなしの時にはリズムにきちんと乗っていたつもりだったのだが,やはりあてにはならないようだ.

そこでメトロノーム付きで,難所の部分だけの繰り返し練習をおこなったが,なかなかうまく行かない.もしかしたら,メトロノーム浮きで繰り返し練習はやったほうがよかったのかもしれない.

先日からトリルのやり方を変えたのだが,こちらもまだ感覚がよくわからない.確かに指を鍵盤から離さず指をあげないようにすれば,音は出て,しかも速くトリルができる.しかし音がはっきりせず,音量も小さくなってしまうようだ.ちょっと強めに引くべきなのかもしれないが,力を入れると動きが遅くなる.これについては,また対策を考えたいと思う.

ということで,お疲れ様でした.

2013年12月6日金曜日

ピアノ練習 2013/12/5

本日のピアノ練習は,1時間のみ.しかもインヴェンション第1番の練習をメインで行った.ここまでブログには書かなかったが,練習は約30分ぐらいやっていた.しかしほとんど練習とはいえなかったので,書き込みはしなかった.

この30分練習は,やはりインヴェンション第1番の両手練習を繰り返し行うというものだった.そのため本日は,第2番~第4番については,かなり指の動きが悪く,忘れている部分も多かった.思い出し練習とでも言うようなものになってしまった.

あれだけ練習したものが,数日間練習しないだけで失われてしまうのかと思うと,ちょっとむなしい気もした.外国語の習得トレーニングと同じで,基本的には短い時間でも,毎日練習すべきだと感じた.

ただここ数日間恐ろしい睡魔に襲われており,練習しながらいつのまにか指の動きが止まって,鍵盤に指をのせただけの状態となり,その後徐々に横に傾いて,椅子から倒れてやって気がつくといった状態で,とても練習にならなかった.それでも30分は練習したのだが,実質的には練習とはいえない状態だった.

本日は眠気はそれほどなかったが,あまりにも忘れてしまった事が多いことに驚き,少しやる気をそがれた形となった.それでも1時間確保できたことで,よしとしておく.そうそう,眠気がなかったのは,練習開始時間を普段よりも数時間早めたためかもしれない.眠気対策でそうしたのを今思い出した.

ということで,お疲れ様でした.

2013年12月1日日曜日

ピアノ練習 2013/11/30:トリルのコツ,デジタルピアノの最適ボリューム

 ちょっと忙しくて,ブログを書けなかった.本日は1時間練習なのだが,いくつかの発見があったので,それについて書いておく.

 ちなみに練習内容は,インヴェンション第1番の両手メトロノーム付き練習をメインとして,第3番までをサブで練習した.

 例によって,トリルがうまくいかないので,ついにネットで検索してみた.すると答えは意外だった.その答えとは,

高速トリルをする時は,指が鍵から離れないように行うこと

以前のブログ記事では,指の跳ねが高速な動きには必要だと書いたが,それは全く間違っていたのだ.基本的には,指を上げすぎないことが大切.考えてみれば,指が跳ねて,鍵盤から離れてしまえば,それだけ動く距離が増えるわけだから,高速な動きが難しくなるのは道理だった.そこで実際にやってみると,確かにこのやり方のほうがうまくいく.

 自分はさらに,いくつかの原則に気がついた.例によってこれが正しいかどうかは別なのだが,当面はこの原則でトリルを行おうと思っている.
  • 打鍵後の指は,鍵盤が元に戻ろうと動き(重さ)に合わせる.つまり打鍵後,鍵盤が元の位置に戻ろうとする速度と,指が上に上がろうとする速度を合わせるのだが,基本的には鍵盤が指を載せて,上にリフトするような感じ.これならば指と鍵盤は,強くは密着しないが,指が鍵盤から離れることはない.つまり他の鍵への素早い移動と,トリルの要請とを両立できる.
  • トリル中は,鍵盤の水平面より下で指を動かす.打鍵後,音が鳴ってから,上記のやり方で指は鍵盤に押されて戻るが,再び押し始めるタイミングは,鍵が完全に戻る前に行うということ.これによって,より指が鍵盤から離れにくくなると思われる.また上下に動く距離が短くなるので,高速トリルが可能となるはず.高速トリルを行う場合は,その上下の距離がより短くなると思われるので,トリル中の指は,より鍵盤の深部で上下することになる.鍵盤の底で細かく振動するようなイメージになるのではないか?
  • 打鍵時に,鍵盤を押していき,鍵盤の底についたと指が感じたら,すぐに押す力を抜いて上記の指戻しに入る.つまり音を短く発声させる.以前は底にぶつかって跳ねるようなイメージを持っていたが,それでは鍵から指が離れてしまう可能性が高い.また音が鳴ったかどうかを耳で確認していると,長く押してしまうと思われるので,指の感覚で戻しのタイミングを判断する.
 とりあえずこれらを頭に入れて,しばらくは練習してみようと思っている.

 さてここ数日の練習で,もう少し気づいたことがあるので書いておく.

 まず一つ目は,室温が下がってきたため,手がうまく動かなくなってきたことだ.例えば,現在の室温は16度ほどなのだが,これでも指の動きが悪くなっているのを感じる.対策としては,穴あき手袋を使用するとか,指のアップを行うなど考えているが,今のところ実行していない.16度ぐらいならまだいいだろうが,今後,本格的な冬を迎えることになるが,その時は何らかの対策が必要となるだろう.

もう一つは,デジタルピアノ特有の問題であるボリューム設定だ.自分は基本的にヘッドホンをつけて練習しているが,いままでボリューム設定はあまり気を使わなかった.音が聞こえれば良い程度に思っていたのだ.ところが最近,トリルの問題を考えていた時に,どのぐらいの弱い打鍵で,音がなるのかが気になってきていた.このピアノにおいて,ピアニッシッシモの音はどれぐらいの打鍵力で鳴るのだろうか?そこではたと気がついた.だけどそれはボリュームが小さめに絞ってあれば,音は鳴っていても,聞こえないじゃないのか?

 たしかにその通りだ.その他にもボリュームを絞ってあれば必然的に,ボリュームをより上げてあった場合よりも,強い力で鍵盤を押しているだろう.そうなると当然,ピアノの特質から言って,音色が変わってくる.もしかしたら自分は今まで,標準よりもボリュームを絞っていたのかもしれない.確かにボリュームは35%ぐらいのところに設定していた.そこでボリュームを上げて,一応50%の位置に設定し直した.しかしながら果たしてこれが適正,つまり通常のアコースティックピアノとおなじ感覚となる位置なのだろうか?

 そこでネットを調べてみると,デジタルピアノメーカーの一つである Roland のページに答えがあった.それによると,「ボリューム設定は半分の位置がベスト」ということだった.おそらくメーカー側もこの問題については配慮していることだろうから,半分を標準,つまり一般的なアコースティックピアノとおなじ感覚になるように設計してはいるのだろう.

 ただ,自分のデジタルピアノは YAMAHA 製 P-105 (リアル・グランド・エクスプレッション・スタンダード音源,グレードハンマー・スタンダード鍵盤 )だが,この機種には「インテリジェント アコースティック コントロール」という機能がある.この機能は「音が小さくなるにつれ、聴き取りにくくなる高音や低音を自動的に補正する機能だ.しかもこの補正のかかり具合は,±3まで設定できる.自分はこの機能についてはノータッチで,標準状態のまま使用してきた.そのため,この機能のおかげで,ボリュームを比較的小さくしたまま練習することができたのかもしれない.

 もしこの補正機能が強く働いていたとすると,自分は高音域や低音域を,本来のタッチ強度よりも弱く弾いていた可能性がある.これはこの機能を無効にしてみなければよくわからない.時間があったら試してみたい.

 ちなみにこの機種は,鍵盤のタッチ感度を「タッチ感度無視設定」を含めると,4段階に設定できる.現在自分は標準であるミディアムで使用している.現在販売されている YAMAHA のデジタルピアノの中で,P-105は最も安いモデルではあるのだが,別のピアノを弾いていた人が移行するケースも,ある程度考慮している点については,好感が持てる.

ということで,本日はここまでにしておこう.お疲れ様でした.