本日のTVにおける坂本龍一の発言を聞いてふと思った.
コンピュータ音楽創作において2つの方向性があるということ.一つはコンピュータの冷たい数理的美しさ・清潔さを追求する方向,つまり人から離れようとする方向.もう一つはコンピュータに命を吹きこもうとする方向.つまり人肌に近づけようとする方向.
前者は「人から遠ざかっていく音楽」と言えるのかもしれない.その追求とは詰まるところ,人間と音楽自体の間に横たわる決して越えることの出来ない深淵を,認識するという行為なのかもしれない.
その深淵を前にして絶望することのない音楽家には,おそらく音楽自体に対する敬虔な信仰があるのだろう.その前に立ち止まれば彼は,決して越えることの出来ない深淵の向こうから流れてくる,数理的美の芳香に癒される.しかし後を追って歩き始めれば,深淵はますます広く,そして深くなっていく.ここに彼の信仰は試されるであろう.
後者はもっとわかりやすい.人肌を目指すコンピュータ音楽の目標は,明らかにアンドロイドである.それはただのアンドロイドではない.そのアンドロイドは,人類の誕生から現在に至るまで,人としては決してやってくることはなかった「究極の美女」の像である.
前者と違い,後者のアプローチをとる者は,音楽自体と人間との間に絶対的な断絶があるとは認識しておらず,むしろ両者間の距離はその追究によって限りなく縮める事が可能であり,最終的には人間と音楽とが完全に「一体となる」ことができると想定している.
ピュグマリオーンの甘美な夢を見た人々の悲劇は,彼らの作品が結局は物体であり,一体化が不能であったことによる.しかし音楽作品ではどうなのか?そもそも自分で音楽を創作し,それを自分で奏でるという行為は,ピュグマリオーン性を元来持っているのでは無かろうか?
いずれにしてもピュグマリオーン主義者は注意しなければならない.一つは内向的排他性(閉じた系)に伴う死.もう一つは快楽追求主義による消耗死である.
この2つの方向性は,コンピュータ音楽の問題というよりも,古くから音楽に内在していた問題であり,それがコンピュータという拡大鏡の出現により顕在化した,といったほうが正しいのかもしれない.
おそらくバッハは,その作曲において,神と人とによって形成された無限の広さを持つ1次元空間の,いったいどこに己の工房を築くのかについて苦慮したことだろう.しかし,ありがたいことだ.彼にはその決定のためのある資料が手渡されていたのだ.それが聖書であった.
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